飛び出せ!らぼらいふ!

雑多な徒然日記

雨の日の想い

―雨―

梅雨の時期が近い。

雨の日は憂鬱だ。
雲はどんよりと黒く、世界は薄暗さに包まれて、気分が落ち込みやすくなるせいで。


雨が降りはじめてから止むまで、世界は恒常的で無味なものへと変貌を遂げる。
不規則に傘に当たる小さくも連続的な水滴の音。トタン屋根に当たって生み出される高い破裂音。
そして道路を勢いよく走る車のタイヤがあげる水しぶきの、バシャンという音。


いろんな雨の音は、それまで静かだった世界の平穏を打ち消すかのように、大合奏を始める。
いや、合奏なら良かったのかもしれない。でも雨の音はそんなにキレイなものではなくて。
乱雑で、ノイズ混じりの協調性のない不協和音のような。


そんな音が私は苦手だった。


けれど唯一、雨が降り出すその瞬間だけは好きで。
一気に湿度が高くなり、湿った土の独特な匂いが鼻を刺激する。
「今から世界は変わりますよ」と、まるで蛹が羽化の合図を出すかのように。
その瞬間が、好きなのだ。



正当性を巡るもの
正当性、という言葉がある。価値観と言い換えてもいいかもしれない。
最近SNSなんかで話題になっているアレだ。


例えばTwitter
誰かの発言が面白い、凄いと共感され拡散されると、その後必ずと言っていいほど変わったリプライが寄せられる。
「それはおかしい。私はこうだと思う」「絶対このほうがいいよ」「こうすればよかったのにーーー」


人は元来、平等には生きれない。
平等であるべきだと声高に叫んでいるが、その実彼らが望むことは、相手よりも下の立場にならないことだ。その過程で相手を陥れることになったとしても、結果優位に立てばそれで終わりなのだ。

頑張っている人をみれば「意識高い系」と揶揄し、彼らの意欲を削ぎ落とそうとする。
成功談を聞けば、「偶然そうだっただけ」だとして、"普通"ならそんなことはならないのだと諭す。
だから、そんな「目立った人」に対して自らの「正当性」を押し付けることで、その人よりも自らを上だとみなす行為が発生することになる。
ではなぜ「正当性」を押し付けることが優位に立つことに繋がるのだろうか。


それこそ嫉妬の裏に見え隠れする、自己肯定感というものが存外に大きく絡む話なのかもしれない。



非認知能力と自己肯定感
非認知能力、というものが社会人に必要らしい。
人間は、「認知能力」と「非認知能力」の2つの能力をもつという。
テストや試験で数値化できる「認知能力」に対し、数値化できないものが「非認知能力」である。
この非認知能力には、他社への信頼、やり抜く力、協調性などが含まれる。
そしてその中に自己肯定感がある。


私たちは小学校から中学校、高校を通した集団生活において、そんな非認知能力のほとんどを身に着けてきたのだろう。
正しくは身につける機会を提供されてきたというべきだろうか。
運動会や修学旅行で他者と協力する力、夏休みの宿題を期日までにこなしてやり抜く力、委員会のような責任のある仕事での他者への信頼。
程度の差こそあれ、そこに触れてきた人はおそらく殆どであろう。


しかし、自己肯定感はどうなのか。
自己肯定感と正当性の押し付けの関係は、切っても切れない。
例えば、小学校でのいじめ。
服が汚いから、体型が違うから、しまいには容姿が原因で、往々にしていじめは発生する。
そう、自己肯定感に関しては、少し話が変わってくる。


それはきっと、家庭や学校でみんな仲良く、平等に生きましょうと教えられることに起因するのではないだろうかと私は考えている。
本来、人間は一人ひとり個性があってしかるべきだ。しかし、その個性の許容を少なくとも日本の風土では許さない傾向にある。
そして早いうちから大人たちによって教えられた"普通"を価値観の基準として大事に思い、"普通"ではないとみなした相手を排除したがる。
理由は簡単だ。
"普通"でない相手は自分の軸を揺るがすからだ。
その"普通"こそが当人たちの正当性であり、正当性を押し付けること、それは本来"普通"ではないはずの自分の内部から生じる矛盾、軋轢、ストレスを吐き出すことと同義であり、それによって自己肯定感を高める思考に、気づいたらなってしまっている。


考えればとても不可思議な結論だ。
自分自身は"普通"であることにどこか訝しみを感じていながら、その不信感を顕にしてしまうかもしれない"普通"でない相手に恐怖を抱く。そして平等を謳うことで他者に自分の正当性の受容を強要し、自分を優位に立たせ、これが正しいことなのだと自信をつけようとしている。


人の目を気にしないで自分らしさを大事にしよう、なんてキャッチーな言葉をよく目にするが、自分らしさを潰しているのはこの社会であり、自分らしさが潰されている自分を自覚しない限り、求められている社会人の型にたどり着けないのが現状である。
さらにそんな社会人を求めていながら、就活の面接ではみんな一様のスーツを着させて、身だしなみを整えましょう、なんて言うのだからいよいよ笑い草だ。



自己肯定感との付き合い
話は少し変わるが、私は幼少期から、親に否定されて育てられてきた。
性格が悪い、顔が悪い、言動が悪い。
そんなことを言われ続けてきた。
これも一種の、親の正当性の押しつけだったのではないかと思う。
だから私は、親から大事にされて育ってきた人たちに対し、彼らを"普通ではない"と考えきつく当たっていた。
本来ならば、正当性の押しつけと自己肯定感は、反比例してしかるべきだ。
他者を陥れて得る満足感など優越感からくる自己満足に過ぎないのだから。
しかし、正当性を押し付けて自己肯定感を得ることが"普通"であると慣れてしまったら、この考えから脱出するのは困難を極める。
何故か。
単純だ。相手を批判することでは自分が一切傷つかないからだ。
結論、楽なのである。
しかし、批判された相手は自分が考えている以上に深く傷ついてしまっている。
しかしながら、相手の痛みはわからない。
まるで自分の"普通"が正しいのかどうかわからないように。


私自身、親の押しつけにひどく傷つき反抗していたくせに、他者に対して同様の正当性の押しつけをしていてしまった場面が多々あって。
そのたびにどこか胸の奥で違和感を得ながら、ひたすら隠し気づかないふりをしていた。
そのうち段々と心が荒んでいく感覚があって。


どうしようもなくふさぎ込んでいた時、私が感じていたのは、自己肯定感ではなく、ただの優越感であったのだと教えてくれたのは、高校時代とても仲の良かった友人だった。


けれどそれを教えてくれた彼女は東日本大震災の折、亡くなってしまった。
彼女はいろんな人の長所に気づき、そこを褒めて伸ばすことを得意としていた。
震災の一年少し前、ちょうど梅雨の始まる頃。
彼女に私は尋ねた。
「なんでそんなに相手のことを思いやれるのか」
彼女は笑って。
「したいと思ったから、大事だとおもったから」
そんな、大層な理由がなくても、人を思いやって得られる自己肯定感というものを、彼女はとても大事にしていた。


大人になってから自分の考えや価値観を変えるのはとても大変だ。
私もいまだ、正当性の押しつけによる自己肯定感から脱却できていないことがある。
でも雨の降る間際、その変化のタイミングにでも、そんなことをふと考えてみるのも、いいかもしれない。